TOPICS 2021.03.23 │ 12:05

社会人オタク教養学
シャーロック・ホームズ③

第3回 宿命のライバル、ジェームズ・モリアーティ

相棒(バディ)も男装女子も悪の組織も、すべてはシャーロック・ホームズから始まった。ジョン・ワトソン、アイリーン・アドラー、そしてモリアーティ教授――ホームズの活躍を彩るキャラクターたちを通して、名探偵の素顔に迫る。第3回はホームズ宿命のライバルにして邪悪なる悪の首領、ジェームズ・モリアーティについて。

文/高野麻衣 バナービジュアル/きばどりリュー

邪悪を体現した存在

その男は「犯罪界のナポレオン」と呼ばれている。その高い知能を駆使して「蜘蛛の巣の中央にいる蜘蛛」のように社会を裏側から支配し、ロンドンの巨大な悪の組織を操る天才。国家の命運をも左右しかねない危険人物――。あの自信家のホームズに知力は同等と認めさせ、「あんたを破滅させられるなら、世の中のために喜んで破滅を受け入れる」とまで言わせた男、ジェームズ・モリアーティ。

彼は、ホームズがその犯罪計画を暴くチェックメイトの瞬間まで、いっさい姿を現さない。『最後の事件』でようやく相まみえた宿敵に、ホームズは刺し違える覚悟で挑み、彼を道連れにライヘンバッハの滝に落下、ともに死亡と公表されるのである。後に帰還したシャーロック・ホームズは、その「死と復活」があってこそ、イエス・キリストのごとき伝説になったといえる。

「完全なる悪」から「ライバル」へ

ジェームズ・モリアーティの経歴は、生年からして「不明」である。良家の生まれで、若くして優れた論文を発表した元数学教授。趣味は絵画。背は高く痩せている。三人兄弟で、弟はイングランド西部の駅の駅長。一方、兄(同姓同名のジェームズ・モリアーティ)は大佐だという。1891年、ホームズによって組織壊滅へと追い詰められるが逃亡。身の危険を感じ大陸へ渡ったホームズをスイス・マイリンゲンにあるライヘンバッハの滝で待ち伏せし、死闘の末、滝つぼへ転落し死亡した。

正典(※1)にはじめてモリアーティが登場するのは、上記の顛末を描いた『最後の事件』だが、シャーロック・ホームズの年譜を作ってみると、彼がモリアーティという男を「宿敵」として意識するのは、1888年に遭遇した『恐怖の谷』事件だったことがわかる。物語冒頭で、彼はワトソンにこう語る。

強いだけじゃなくて凶悪なんだ――筆舌に尽くしがたいほどにね。そこだよ、僕の領域と交わってくるのは。モリアーティ教授のことは前に話しただろう?/あれは天才だよ、ワトスン。いずれ凡人たちの犯罪を片付けて手が空いたら、この僕が相手になってやる(※2)

ホームズの揺るぎない決意。それは、3年後の『最後の事件』を前にしても変わらない。

ワトスン、彼は犯罪界のナポレオンだよ。この大都会に横行する悪事の半数と、発覚していない知られざる犯罪のほとんどは、あのモリアーティが仕組んだものだ。/自ら手を汚すことは絶対にない。犯罪計画を練るだけだ。みごとに統制の取れた大勢の手下がいるからね。/ワトスン、これが僕の追っている組織だよ。一味を世間に曝して壊滅させるべく、これまで全力を傾けてきた(※3)

名探偵が遭遇する犯罪の背後でうごめき、犯人たちの口から、ある種の畏敬をもって「あの方」と語られるすべての黒幕。モリアーティの佇まいに、『名探偵コナン』の黒ずくめの組織の首領を思い浮かべる方は多いだろう。ヒーローに対する悪の組織の権力者。あるいは、自らは手を汚さない犯罪立案者――モリアーティが、現代のエンターテインメントに与えた影響は大きい。彼はアルセーヌ・ルパンのような「アンチヒーロー」とは一線を画す「完全なる悪」の始祖なのである。

じつはモリアーティは、シリーズを終わらせたかった作者コナン・ドイルが、天才主人公を追いつめるだけの途方もない力を持った敵役として、苦肉の策で作り出した「宿敵」だった(※4)。その設定はミステリーにとどまらない。『スター・ウォーズ』の銀河皇帝ダース・シディアスや『007』で犯罪組織スペクターを束ねるブロフェルド、そして『仮面ライダー』の悪の組織の首領などなど。TVシリーズならば、Cパートの暗がりのなかでその存在をほのめかし、作品全体に伏線となって現れる「謎めいたラスボス」だ。

※1 シャーロキアンによる、原作小説の呼称。
※2 アーサー・コナン・ドイル著 駒月雅子訳『恐怖の谷』 角川文庫 2019
※3 アーサー・コナン・ドイル著 駒月雅子訳「最後の事件」『シャーロック・ホームズの回想』 角川文庫 2010
※4 ドイルは本来、歴史小説家を志向しており、ホームズシリーズの人気や高額の報酬との間で葛藤していた。モリアーティの造形は、当時ニューヨークとロンドンを跨いだ犯罪ネットワークを築き「犯罪界のナポレオン」と呼ばれた実在の犯罪者、アダム・ワースをモデルにしたともいわれている。

ホームズ=モリアーティ!?

しかし、実際のモリアーティの魅力は、最後には自ら手を汚してホームズと一対一の死闘をした点にある。登場シーンは第三者による言及も含めてシリーズ中6作品のみだが、同時代に人気を博したウィリアム・ジレット主演・脚色の舞台『シャーロック・ホームズ』で出番を追加され、「宿命のライバル」としての人気が確立していったという。

人気が高まると、ファンの「解釈」熱も高まる。有名なのが1976年の映画『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』に描かれた「モリアーティ=ホームズの妄想」説だ。モリアーティは、ホームズに数学の家庭教師をしていた善良な人物だったが、ホームズがコカイン(※5)による妄想で犯罪王だと思い込んでしまった、というもの。さすがに飛躍のしすぎだが、実際にモリアーティを目撃したのが、ホームズと『恐怖の谷』に登場するマクドナルド警部だけだったために、存在そのものが疑われてきたのだ。

画像出典 mmedp/Depositphotos

その後もさまざまなパスティーシュが生まれた。真瀬もとによる『シャーロキアン・クロニクル』シリーズ(1999~2000年)は、モリアーティとホームズが同一人物という仮説をもとにした小説。アメリカの推理作家マイケル・クーランドによる『千里眼を持つ男』(2004年)では、主人公モリアーティとホームズが共闘する。コナン・ドイル財団が唯一「公認」したアンソニー・ホロヴィッツの小説『モリアーティ』(2018年)も話題になった。2010年代には、BBCドラマ『SHERLOCK』の爆発的人気によって「ホームズと同年代、あるいは年下のサイコパス」としてのモリアーティ像が定着した。TVアニメ『歌舞伎町シャーロック』(2019年)に登場した16歳のモリアーティ(声/山下誠一郎)の衝撃展開も記憶に新しい。

※5 19世紀当時の英国では合法。『四つの署名』の序盤でホームズは、暇すぎて1日3回も注射している。

社会を変革させるための必要悪

そして、真打と言えるのが『憂国のモリアーティ』だろう。2016年、『ジャンプSQ.』にて連載開始。昨年スタートしたTVアニメも、この4月に2クール目を迎える人気作だ。

この作品がなにより画期的だったのは、「ジェームズ・モリアーティ」というメタ的存在を、若く美しい三兄弟に担わせた点だった。英国の腐敗した社会を憎む孤児院育ちの天才少年(声/斉藤壮馬)とその弟(声/小林千晃)、同じように憂国の志を持つ伯爵家の長男アルバート・ジェームズ・モリアーティ(声/佐藤拓也)が出会い、腐敗の象徴のようなモリアーティ家を乗っ取る。そして天才少年はアルバートの弟ウィリアム・ジェームズ・モリアーティを、末弟はルイス・ジェームズ・モリアーティを名乗り、ともに社会変革という「正義」のための「悪」に手を染めていく――というピカレスク・ロマンに仕立て上げたのである。

正典と同じ19世紀末の大英帝国が舞台だが、ドラマ『SHERLOCK』やガイ・リッチー監督の映画版、あるいは『007』などの人気要素を巧みに取り入れたキャラ造形も面白い。憂いを帯びた美青年ウィリアムと、彼を信頼し、崇拝する兄弟。腹心フレッドとモラン大佐。『空き家の冒険』 (※6)に登場するひと言からよくぞここまでと感心した「Q」ことフォン・ヘルダー。英国政府で暗躍する、ホームズの兄マイクロフト。ハドソン夫人やアイリーン・アドラーも登場する。

そしてなんといっても「英国紳士じゃない」シャーロック・ホームズ(声/古川 慎)がいい。いかにも貴族出身のインテリ教授風のウィリアムと好対照をなす、コックニー訛り(※7)のホームズ。サラサラの金髪と癖のある黒髪。正義と真実。ふたりの心理戦と共闘が、物語の主眼だ。

※6 アーサー・コナン・ドイル著 駒月雅子訳「空き家の冒険」『シャーロック・ホームズの帰還』 角川文庫 2016
※7 ロンドンの労働者階級訛り。

天才の孤独を分かち合える存在

ふたりにしかわからない「領域」で、互角に闘い、天才の孤独を唯一分かちあえる――恋に限りなく近い、特別なライバルを私たちは宿敵、あるいはツートップと呼ぶ。名探偵と宿敵の関係性はまさにそれだ。

現実の悲劇が証明するように、「正義」はひとつではない。モリアーティというキャラクターの魅力も、あるいはそこにあるのかもしれない。しかし、彼は敗北する。彼が描く正しさとは悪であり、秩序のためにはホームズが勝たなければならないからだ。モリアーティの昏い炎があるからこそ、ただ退屈を紛らわせているだけのようにも見えるホームズの揺らがぬ「正義」はあぶり出され、その色を濃くしていく。

彼らの行きつく先が「ライベンバッハの滝」であることは、信長と光秀にとっての「本能寺の変」と同じように動かしようがない。そこには歴史にも似たさまざまな解釈や関係性の変遷があって、私たちはこれからもきっと、そのまぶしい「領域」から目が離せない。endmark