TOPICS 2021.03.18 │ 12:00

社会人オタク教養学
シャーロック・ホームズ②

第2回 特別な女性、アイリーン・アドラー

相棒(バディ)も男装女子も悪の組織も、すべてはシャーロック・ホームズからはじまった。ジョン・ワトソン、アイリーン・アドラー、そしてモリアーティ教授――ホームズの活躍を彩るキャラクターたちを通して、名探偵の素顔に迫る。第2回はホームズにとって特別な「あの女」、アイリーン・アドラーについて。

文/高野麻衣 バナービジュアル/きばどりリュー

ホームズが唯一、敗北した女性

自尊心の高い男が軽く見ていた女に負けたとき、そこには何が生まれるのか。もしかしたら、自分の想像をはるかに超えた相手への、ひと目惚れに近い感情かもしれない。

アイリーン・アドラーは、初期短編集『シャーロック・ホームズの冒険』の冒頭を飾る人気作『ボヘミア王のスキャンダル』(※1)でホームズに唯一の敗北を味わわせ、生涯尊敬をもって「あの女(あのひと)」と呼ばれ続けた特別な女性だ。

登場は一度きりなのに、多くのシャーロキアンにとってもアイリーンは、特別な「あの女」であり続けている。彼女とホームズのロマンスを描いたパスティーシュは数多く出版され、ふたりの子供まで存在する。『名探偵コナン』の青山剛昌が「灰原哀の名前はアイリーンから」と明かし話題になったのも記憶に新しいし(※2)、ホームズでエンタメを学び19世紀ロンドンを舞台に『ジョジョの奇妙な冒険』をスタートさせた荒木飛呂彦もまた、『ゴージャス☆アイリン』をはじめとする強きヒロインたちをアイリーンから創出している(※3)。

美しく聡明なアイリーン・アドラー。彼女はどんな人物だったのか。

※1 アーサー・コナン・ドイル著 石田文子訳「ボヘミア王のスキャンダル」『シャーロック・ホームズの冒険』 角川文庫 2010
※2 『乾杯シャーロック・ホームズ』NHK総合、2017年6月24日放送
※3 荒木飛呂彦 「ホームズに学んだ、物語の基本原理」『kotoba』2019年夏号 集英社 2019.6

男装女子の元祖・アイリーン

アイリーン・アドラーの生い立ちは、作中でホームズによってしっかり読み上げられる。

ちょっと見せてくれ。なるほど。1858年ニュージャージー生まれ、アルト歌手――ふむ! スカラ座に出演、ほう! ワルシャワ帝国歌劇団プリマドンナ、へえ! 歌劇団引退後はロンドンに在住――そうか! 要するに陛下はこの若い女性とお知り合いになられて、お立場をあやうくするような手紙かなにかをお出しになって、それを取りもどすことをお望みなのですね?(※4)

事件の依頼人は、陛下ことボヘミア王。結婚を控えた彼が取り戻したいのはただの手紙ではなく、この絶世の美女とうっかり撮影してしまったツーショット写真だった。ホームズは写真を奪還すべく、巧妙に策を練り、馬丁や牧師に変装してアイリーンに近づく。そうしてついに写真の保管場所を突き止めるのだが、アイリーンは途中で策を見破っており、踏み込んだときには家はもぬけの殻。問題の写真もろとも逃亡してしまったのである。

アイリーンがひとり微笑むブロマイドに添えられた彼女の手紙には、こう記されていた(以下抜粋)。

わたしはこれでも女優のはしくれです。男装にも慣れております。男性の身なりをして、その恩恵をしょっちゅう受けているのですよ。私は御者のジョンにあなたの見張りをたのみ、二階に駆けあがって、散歩服――男装用の服のことです――に着替え、下におりていくと、ちょうどあなたは出ていかれるところでした。わたしはあなたのあとを追い、お宅の玄関先までついていきました。そこで、わたしがほんとうに、あの名高いシャーロック・ホームズ様のご関心を引いていることをたしかめたのです。そのときわたしは無謀にも、あなた様に声をかけてしまいました(※5)

この「男装」エピソードは、アイリーン・アドラーの人気を形成する最重要ファクターだろう。そこには、彼女の「元オペラ歌手」という経歴も大いに関係している。第一に、自立した職業婦人、19世紀の「新しい女」であること。第二に、声質が「アルト」であること。その声は低めで、オペラならばピュアなヒロインではなく、『カルメン』などに登場するセクシーなダークヒロインや悪役令嬢、はたまた少年役を務めた女優なのだ。一般的な日本人のイメージからすると、宝塚歌劇団の男役出身者が近いかもしれない。

画像出典 wulfman65/Depositphotos

「こんばんは、シャーロック・ホームズさん」(※6)。前夜、勝利に酔う自分にそう声をかけていった見知らぬ「男性」のことを、ホームズは覚えていた。変装術を駆使したホームズへのあてつけのように巧みに男装したアイリーン。気づかなかった自分に、ホームズは愕然とする。つねづね軽視していた「女性」に出し抜かれたのである。しかし、報酬を申し出た国王に、名探偵はあくまで静かに申し出る。

陛下はわたしにとってその指輪よりもっと価値あるものをお持ちです。/この写真です(※7)

そうして彼女のブロマイドを受けとったホームズは、アイリーンにもらった金貨を時計の鎖につなぎ、ともに大切に保管する。恋よりも、なんてロマンティック――!

※4 前掲『シャーロック・ホームズの冒険』 
※5 前掲『シャーロック・ホームズの冒険』 
※6 この決めゼリフはアイリーンの代名詞。キャロル・ネルソン・ダグラスによる人気パスティーシュ小説『おやすみなさい、ホームズさん』(日暮雅通訳 創元推理文庫 2011)など、多くの二次創作の元ネタになっている。
※7 前掲『シャーロック・ホームズの冒険』 

男装だけでなく、女王様にも

このロマンティックな関係性やアイリーンの男装を縦横無尽に活用したのが、2009年、世界中のオタクに「アイリーン・アドラーってつまり、峰不二子だったんですね」という事実を教えてくれた映画『シャーロック・ホームズ』だった。

眠るホームズの部屋に不法侵入し、優雅にくつろぐアイリーン(演/レイチェル・マクアダムス)。薔薇色のバッセル・ドレスを裾から覗かせた、ロイヤルブルーのケープ。刺繍入りのハンカチ。紅茶を飲むコケティッシュなしぐさ。なによりホームズ(演/ロバート・ダウニー・Jr.)との間に漂う、何ともいえない「共犯者」の雰囲気――。誰もがルパンと不二子を想像した、そんな再会シーンだ。ガイ・リッチー監督のアプローチには愛があり、「どこまで原作を読みこんだんだよ!」 と笑いながら抱きしめたくなるような二次創作として仕上がっていた。

そんなシャーロキアン魂をさらに昇華させたのが、2010年にスタートし「ホームズ新世紀」を築いたBBCのドラマ『SHERLOCK』だ。舞台は現代のロンドン。アイリーン(演/ララ・パルヴァー)の職業は「女王様」。バッキンガム宮殿におわす「高貴なお方」の依頼で、ロイヤルセレブ(女性)とのセックスビデオを取り戻しに来たシャーロック(演/ベネディクト・カンバーバッチ)の前に、彼女は堂々全裸で登場する。恋愛の駆け引きと裏切り、そして視聴者をも欺くふたりのラストにゾクゾクしっぱなしの90分。喝采ものの翻案だったが、強すぎると感じた人もいたかもしれない。後年、『SHERLOCK』でカンバーバッチの日本語吹き替えを担当する声優・三上哲さんにインタビューした際、「アイリーンより断然モリー派」(※8)と即答され、爆笑に包まれたのを思い出す。

※8 モリー・フーパーは、聖バーソロミュー病院のモルグに勤める法医学者。シャーロックに片想いする地味で健気な女性キャラとして、シリーズを通して人気がある。

男同士の絆における「第三の男」

『SHERLOCK』を見た方はご存知のとおり(※9)、こうした二次創作的要素のうち、世界中でよくも悪くも騒がれすぎているのがホームズとワトソン、あるいはモリアーティとのブロマンス(ブラザー・ロマンス=男同士の絆)やBLだが、ここにもアイリーンは深く関わってくる。

イヴ・K・セジウィックが『男同士の絆』で論じたように、ホモソーシャルに入りこむ異性の存在は、その関係性により複雑な愛憎模様を生じさせる。その典型例として、ホームズとワトソンの間には、ワトソンの妻となるメアリ・モースタン(※10)が存在する。しかし、アイリーンの場合は、そこに「第三の男」のニュアンスが加味されるように思う。ホームズの相棒の座をめぐる「ワトソンのライバル役」といえば伝わるだろうか。

たとえば、ガイ・リッチー版のアイリーン・アドラーは、黒幕であるモリアーティ陣営についたと見せかけ、男装してバディと共闘する。そんなアイリーンを「あの女」呼ばわりするワトソンはまるで、ルパンと不二子のくされ縁に苦虫をかむ次元大介だ。三角関係の物語における「ライバル役」には魅力的なキャラクターが多いが、この場合はアイリーンが完全にその役どころだろう。映画の終盤、アイリーンはホームズに「私が恋しくなるわよ」とうそぶく。「悲しいかな、そのとおりだ」 と額にキスし、ホームズは相棒ワトソンのもとへ帰っていく。一瞬の中の永遠。これぞアイリーン・アドラーだ。

その強さをもって大胆に行動し、聡明さをもってホームズをも打ち負かす、美しきアイリーン・アドラー。彼女は決して沈黙しない。今も昔も女性たちは、彼女に願いを託しつづける。endmark

※9 『SHERLOCK』には、シャーロックの死の解釈をめぐって英国の腐女子=スラッシャーらしき女性ファンと、彼女の妄想に基づいた劇中劇が登場する。
※10 メアリ・モースタンは『四つの署名』に登場した依頼人で、のちにワトソンと結婚する。『SHERLOCK』での翻案にも意表をつかれたが、2020年に邦訳されたパスティーシュ小説『ベイカー街の女たち ミセス・ハドスンとメアリー・ワトスンの事件簿』(ミシェル・バークビイ著 駒月雅子訳 角川文庫 2020)も話題に。「シャーロック・ホームズ」シリーズの女性たちの新しい冒険は、今後も続いていくだろう。