母の影響でマンガ読みに
――子供の頃に好きだったマンガやアニメを教えてください。
紀伊 マンガよりテレビアニメのほうが先で、好きだったのは『Dr.スランプ アラレちゃん』。マンガ好きの母の影響で、私が小学生になると『りぼん』を買ってもらったり、友達に『なかよし』を借りたりしていました。好きなマンガでいちばん古い記憶は『ちびまる子ちゃん』、そこから間をおいて『美少女戦士セーラームーン』がブームになり、私も例に漏れず夢中になりました。
――『りぼん』『なかよし』の黄金時代ですね。
紀伊 ちょうどそのタイミングでしたね。『りぼん』はとくに『姫ちゃんのリボン』など水沢めぐみ先生の作品が大好きでした。男の子の家に遊びに行った際に『週刊少年ジャンプ』を読み、それをきっかけに少年マンガも読むようになりました。
――その頃からマンガ家になりたいと思っていたのですか?
紀伊 小学4年生の頃にノートに一度だけマンガを描いてみたことがありました。当時は田舎で情報もあまりなかったし、その年頃だと「絵を仕事にするといえばマンガ家」しか思い当たらなかったので「マンガ家になれるのか?」くらいのぼんやりとしたイメージを抱いている感じでした。結局、そのマンガを描くのは途中でやめちゃって、次に描いたのは中学1年生くらいだったはずです。
――また描き始めたきっかけは?
紀伊 当時、地方では会議室でやるようなこじんまりした同人誌の即売イベントがあったんですよ。友達の高校生のお姉ちゃんがそこに出るというので、教えてもらいながら一緒に参加したのがきっかけです。描いていたのは、アニメの二次創作が多かったです。コピー誌なので、描きさえすれば自分ですぐ製本できることもあり、そのときに流行していたアニメとか、あとは少年マンガなどですね。
――高校生になってからはどうでしたか?
紀伊 高校の友人の影響でゲームで遊ぶようになっていました。RPGだと『幻想水滸伝』『ゼノギアス』『ファイナルファンタジータクティクス』、筐体ゲームだと『月華の剣士』が好きで、絵もそのあたりの作品のファンアートをよく描いていました。その頃からアニメやゲームを問わず、頭身が少し低くて目が大きい感じの、かわいい絵柄の作品が好きでした。それはずっと変わっていない気がします。
――高校では漫研に入っていたそうですね。
紀伊 美術部に所属して油彩とかを描いていたのですが、退屈で2年目からあまり行かなくなり、美術部所属のまま合間に漫研に顔を出していました。『ハリー・ポッター』の冒頭でハリーが生活していた階段下の物置きみたいな小部屋に、机と窓がひとつずつと棚がいくつかあるだけの部室でした。部員は3年生の先輩ひとりだけで、私が通い出してからすぐにその先輩は卒業したので、部活自体がなくなりそうだったのですが、生徒会の先輩たちがたまり場目的で広い空き教室に部室を移して継続させてくれたので、生徒会と仲がいい人たちの休憩所みたいになっていきました。他の部活の子も遊びに来てお菓子を食べたり、ただ寝に来たりとか、私は私で絵とか描いていて、みんな自由にしていましたね。漫研自体がもとはアニ研だったらしくテレビデオもあったので、誰かがさらにファミコンを持ち込んで『ときメモ(ときめきメモリアル)』で遊んだりしていました。今思うと自由すぎるので先生に見つかったら問題になりそうですが……。
――青春を感じるエピソードですね。そのあとはデザインの専門学校に進学していますが、どんなことを勉強していたのでしょうか?
紀伊 通っていたのはイラストレーション学科で、デザイン全般とイラストレーションの基礎を広く学びました。総合的な知識と能力を勉強するための授業が多かったです。
――そのときはアニメーターを目指していたのですか?
紀伊 いいえ、まったく。2年の進路を決める段階でも具体的に就きたい職種はないままで「絵が描ければなんでもいいか」くらいでした。
キャラクターを描けるだけで満足
――アニメスタジオ(スタジオ雲雀)の採用試験を受けるきっかけは何でしたか?
紀伊 当時、『デジモンアドベンチャー』の劇場版を見てアニメに興味が戻っていたのと、ちょうど『千と千尋の神隠し』の公開年で影響を受けたのもあります。もうひとつは、高校生の頃に都内に勤めるアニメーターの方と知り合う機会があったんです。アニメーションの仕事について話を聞いていたので、総合的な画力を得るのに良いのではと思って、その方にスタジオを紹介してもらい、採用試験を受けたという流れです。12月に採用が決まったので、成人式も卒業式も出ずに年明けすぐに都内に引っ越しました。でも、両親は「絵では食べていけない」と考えていて……。大抵の親は心配でそう思いますよね。「何をするにしても生活できるくらい稼げる仕事に就く」という考えの家だったので。最終的には専門学校への進学も、都内への就職も、マンガが好きだった母が父を説得してくれたみたいです。
――スタジオ雲雀に入ってからの生活はどんな感じでしたか?
紀伊 当時のアニメスタジオはごく一部の会社を除いて基本的に出来高ですが、スタジオ雲雀は最初の研修期間以外は固定給でした。そのため、生活もわりと普通というか……いわゆる一般的に認知されている「過酷なアニメーター生活」ではなかったです。余裕はないけど困窮まではいかないくらい。
――アニメの作画はここが初めてだったんですよね。
紀伊 そうですね。中途採用で同期もいなくて、その年は新卒も取っていなくて同年代の人がいなかったです。たまに来るフリーのベテランの原画さんの隣の机で動画を描いて、先輩やチーフに面倒を見てもらいながら仕事をおぼえていきました。
――とくに糧になった経験は何でしょうか?
紀伊 制作会社の現場をひと通り見られたことです。アニメは複数の人間で作るので、自分や他部署の作業がどのように影響して作品が出来上がっていくのか、その工程をきちんと見られたのがいちばん大きいです。スキル的には、他の原画さんのカットを常に見られたのがよかったです。近藤高光さんと大城 勝さん、あと渡辺真由美さんたちが関わっている作品に入ることが多かったのですが、そういった方の仕事や絵を見ることができたのはとても貴重でした。実際に描かれた生の線を見ると単純に感動するというか、今思うとアナログの絵って「体験」なんですよね。あとスタジオにはいろいろな人がいるので、先輩やチーフに質問したら作画のことはもちろんですが、面白いエピソードや仕事についての考え方をたくさん教えてもらえたので、それが大きな経験になっています。
――アニメーター時代を今振り返って、どう感じますか?
紀伊 アニメ業界って「大変大変、あ~しんどい」って感じですが、けっこう時間が経っているのもあり、あれはあれで楽しかったです。アニメーションの作業は果てのない鍛錬なので、自分はこれで何かを成すとかはないだろうなと思っていましたが、それでもキャラクターを描ける職種だったので。とにかくキャラクターが描きたいので、アニメーション技術を会得したい気持ちより、そのキャラクターがどんな人物で、それに伴いシーンごとにどんな心情でどのような動きをするのかに興味がありました。それが描ければ面白いし、大変でも楽しいと感じられたんですよね。なので、作画マンとして伸びるタイプではなかったなぁと思います。ある意味、気楽で呑気(のんき)でした。
『春風のエトランゼ』
既刊第1巻~第4巻好評発売中(『on BLUE』にて不定期連載中)
著/紀伊カンナ
発行/祥伝社
- ©紀伊カンナ/祥伝社on BLUE COMICS