声優の未来はクラシックの演奏家の悩みと同じようなことが起きる?
――富野監督は自身でキャスティングをすることはありますか?
富野 僕の場合、キャスティングは自分ではほとんどやりません。というのも、演出家の好みでキャスティングをすると偏ってしまって、作品がつまらなくなるからです。当然、監督や脚本家、演出家はキャラクターの声や芝居の想定はするものですが、そのイメージ通りのキャスティングができるとは限らない。オファーを断る役者もいるだろうし、役者のスケジュールの都合もあるからです。
最近の作品を知らないから具体的には説明できないのだけれど、たとえば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は、この100年くらいの間にたくさんの役者が演じてきているでしょうが、台本通りに演技をしていても、役者が違えば作品のクオリティは大きく違ってきます。ただし、ロミオの男優が違う、ジュリエットの女優が違うということを含めても、どれがよかったという話はちょっと言い難い。古典を再現する場合に、どうしたら独自性を出せるのかという作り手の中での戦いがあるわけです。
それはクラシック音楽の演奏家たちもいえることで、この数百年の間に大勢の人間が同じ楽曲を演奏している中で、自分がそれを演奏する意味があるのかということをずっと考えています。世界的な演奏家と呼ばれる人たちですらそういうことで悩んで、俺はこれなんだというスタイルを作ることができた人が一流と呼ばれるんです。
©創通・サンライズ
アニメの世界ではどうかというと、声優の未来というのはクラシックの演奏家の悩みと同じようなことが起きるのではないかと思います。どういうことかというと、絵で描いたキャラクターに声を吹き込んでアムロ・レイ=古谷徹という価値論がある。ガンダムファンにはそれが認められているわけです。
では、今のガンダムファンがいなくなった50年後、100年後に古谷徹という人、アムロ・レイの声を演じた人はどういう風に認識されるのかという問題が出てくる。現在の状況から察するに、100年後も『ガンダム』は見ることができるでしょうが、そうしたときにシェイクスピア作品と同じように演技者として評価されているのであればいいよねってことなんです。
アニメというのは、これまでになかったジャンルです。そういうジャンルの中でキャラクター性が認められて、アムロ・レイという固有のキャラクターが存在してしまっているわけです。アニメの中の固有名詞が具体化してしまった実例があるんだけど、それが何かわかりますか?
――強盗事件の主犯が「ルフィ」を名乗っている件でしょうか。
富野 アニメやマンガの中の固有名詞を使って犯罪を行うような実例が出てきたということは、つまり『ONE PIECE』を見ていた子供が大人になって犯罪者になったときに、その名を使うことで「ルフィ」という固有名詞が、存在として世間に認識されたわけです。
マンガの主人公だった名前が、それとは無関係の存在として認識されるなんてことは、原作者だって「冗談じゃない」と思っているでしょうね。架空のものであっても存在することができる、しかもそれが犯罪にリンクした形で起きてしまったということなんです。
それで、シェイクスピアという名前が犯罪と直結しているかというと、「今のところ」はしていない。これ以後、我々が気をつけなければならないのは「架空のもの」がいつの間にか実在してしまうという意味が、作品とはまったく関係のないところで発生してしまうということです。
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なぜ、そういう話がアムロ・レイと声優の話の中で出てくるのかというと、たかがアニメ、たかがマンガというものでしかなかったものの固有名詞が実在するようになった。実在させたのは誰かといえば、それはファンです。ファンの存在が実在化をさせて、現金化している問題も起きているのは知っていますか?
- この件は、ポケモンカード1枚が個人売買での最高額となる約7億3千万円で購入されたニュースを指している。落札者は世界的な人気YouTuberのローガン・ポール氏。彼は日本に来たこともあり、青木ヶ原樹海で自殺者を撮影・公開して問題になったことでも知られている。
富野 どう考えても数百円のクオリティしかないカードに、7億円以上の価値がついているとはどういうことなのか。この現金化の原因はファンがついているからです。それを貴重品として欲しがるファンの需要があるから高騰する。
どういうことかというと、オタクとファンというものがバカにされていたのは20~30年前のことです。あなたたちの世代にはわかりにくいかもしれないけれど、美空ひばりのファンが美空ひばりのグッズを7億で買うかといえば、それはいなかった。それがゲームというものが世界中に広がったことで、そういうファンが億単位の集合体となったときに7億円という現金が動いてしまう。
こうした現象はもっと前から起きていて、美術絵画が高騰しているのも同じ理由です。ゴッホのあんな筆遣いの絵に数十億円の値段がつけられるというのは、それに見物料を払う人が大勢いるからです。こうした現金化という問題はリアリズムのような感覚もありますが、実際にはかなり怪しい話なんです。
今のアニメ人気が出て喜んでいるのは関係者だけで、本当にそれはうれしいことなのか、本当に物事を考えてのことなのか。この場合の物事とは演技論です。アムロ・レイの演技論が本当にこれから100年後にも残っているものなのかということは、僕にはわからない。興味がないというのではなく、ものの価値論が違ってしまうから先のことはわからないんです。
『ガンダム』は古典ではなく、過去の作品でしかない
――『機動戦士ガンダム』は古典にはなり得ないのでしょうか?
富野 『機動戦士ガンダム』は古典になっているのではなく、過去の作品です。僕は20年前の『∀ガンダム』(1999年)で『ガンダム』をやめました。『ガンダム Gのレコンギスタ』(2014年)は「ガンダム」とついているじゃないかと言われるかもしれませんが、僕はつけていません。『ガンダム』は戦記物ですが、『Gのレコンギスタ』は戦記物ではありません。
もし、僕がこの20年間『ガンダム』に囚われていたとしたら『Gのレコンギスタ』のような作品は作れなかったでしょう。でも、『ガンダム』みたいなモビルスーツが登場しているじゃないですか、と言われれば「はい、そうですよ。だけど『ガンダム』とは全然違います」と答えます。
では、何が違うのか。『Gのレコンギスタ』しか知らないファンに、作品を制作している最中に僕は出会いました。彼ら彼女らは「ああいう世界を作ってくれて楽しかったです。すごかったですね。でも、それだけではなくて、ひどくキツイ話でもあるんですね」ということを中学生でも発言するのに、ガンダムファンはそのことに気づいていません。
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『Gのレコンギスタ』は、人類が一度絶滅しかけたところまで行って、復旧を果たした作品です。『ガンダム』というのは、その前の歴史を戦記物として描いています。
だから、ガンダムファンは「『Gのレコンギスタ』の最初のほうが全然わからなくて見るのをやめた」と言うのです。「見ればわかるでしょう」と言いたいけれど、僕がきちんと言えないのは「『ガンダム』と同じように見られてしまう演出をしている僕が下手なんだろうな」とも思っているからなんです。『ガンダム』と切り離した評価はされないかもしれないという覚悟を決めている部分もあります。
それでも『ガンダム』を捨てないと、同じようなものをずっと作り続けていくことになります。同じ作品を作り続けて死んでいける人というのはほとんどいなくて、そういう意味で上手に死んでいけたのは『ゴルゴ13』のさいとうたかをさんくらいでしょう。作家として劣化していくのを防ぐためにも、『ガンダム』から卒業しないと僕はきちんと死んでいけないんです。
なぜモビルスーツを出すのか? スポンサーをウンと言わせて製作費を稼ぐためには、それくらいの嘘はつかなければならないでしょう。結果として『Gのレコンギスタ』の人気はぱっとしなかったけれど、僕はあまり気にしていません。50年後くらいになれば、『ガンダム』から切り離して評価をしてくれる人が現れるだろうと思えるからです。
そういう自惚(うぬぼ)れがなければ、40年存在したアムロ・レイというキャラクターができたと思えないんです。そういう自惚れは『機動戦士ガンダム』のときにもあったけれど、放送打ち切りという事実も厳然としてあるわけです。
でも、それを突破して映画化もされたのは、ファンの支持が圧倒的にあったからなんです。同様に『ガンダム』を知らない人が「『Gのレコンギスタ』、面白いですね」と言ってくれたことで、僕は『ガンダム』から独立できるという確信を得ました。中学生が支えてくれたんです。こういう言葉は、大人からは一切出てこないんですよ。大人は『Gのレコンギスタ』がわからないと言うんだよ、そこにジオンは出てこないから(笑)。
- 富野由悠季
- とみのよしゆき 1941年11月5日、神奈川県生まれ。アニメ監督、演出家、原作者、さらに小説家や作詞家としての顔も持つ。『機動戦士ガンダム』の原作者であり総監督として後のシリーズ作品の多くを手掛ける。2014年にはガンダムを超えた作品として『ガンダム Gのレコンギスタ』を発表、2019年からは同作品を再編集・新規作画を加えた『Gのレコンギスタ』劇場版5部作が公開された。