犬王は僕たちが知らない『平家物語』を作っていたのではないか
――『平家物語』を訳したあと、どのようなきっかけで『平家物語 犬王の巻』を書き始めたのですか?
古川 以前、世阿弥(ぜあみ)の『風姿花伝(ふうしかでん)』を読んでいるとき、解説や注釈に「犬王」という名前が出てきたんですよ。ルビも「いぬおう」と振ってある。自分は日本人で歴史も知っているはずなのに、こんな名前の人物は知らなかった。どういう舞台をやったかもまったくわからない。調べてみると、まず、世阿弥は父の観阿弥(かんあみ)が亡くなってから10年ぐらいの間の記録が何も残っていないんです。では、そのあいだ誰がスターだったか――これが犬王らしい。10年ぐらいずっとトップスターだった人間が、ひとつもその作品を後世に残せていないというのはなぜなんだろうって、ずっと心に引っかかっていました。それで河出書房新社の『平家物語』の担当編集者から「『平家物語』の外伝……どうですかね?」みたいな話が来たときに、最初は「いやいやいや」って笑っていたんですけど、ふと彼を思い出した。犬王はもしかしたら、僕たちが知っている『平家物語』じゃない『平家物語』の曲を、舞台を作って、それで消えていったんじゃないかとひらめいたわけです。
――手がかりは名前だけ。そんな犬王をどのように造形していったのですか?
古川 ほぼ創作ですね。ただ、足利義満に愛されて、義満から道阿弥(どうあみ)っていう名前をつけられたことや、どう死んだかっていう記録は残っているんですよ。死んだときには、阿弥陀仏が迎えに来て紫色の雲(※)が立つような、すごい成仏をしたという。これは建礼門院(平 徳子)の最期にも似ていますよね。歴史にはほとんど残っていない犬王ですが、最高権力者に愛され、世阿弥にもリスペクトされ、成仏して死んでいった。そのエンディングだけは史実通りにやろうと思いました。そして、ゴールが素晴らしいものだからこそ、いちばん恵まれずに、誰にも求められずに生まれてきた人間が、自分の意志で激しく苦闘して、舞台で人々を魅了し、救い、仏になるまでの達成を見せる――そんな物語が作れたら、芸術をやる意味、表現をやる意味を描くことができるんじゃないかと考え、そこから犬王の像を掘り下げていきました。
- ※紫色の雲 紫雲(しうん)。吉兆のしるしとされる。また、念仏行者が亡くなる際に、阿弥陀仏がこの雲に乗って来迎するとされる。
友魚は犬王と表裏一体で生まれたキャラクター
――『平家物語』では、古川さんの語り手たちへの共鳴を強く感じましたが、『犬王』でその語り手が主人公になるのも興味深いです。
古川 『平家物語』という大きな作品を受け取ったあとで、作り手たちが何を作るか。そこには、いろいろな小説や音楽や映画や美術に触れた10代の僕自身が、作る側になっていったときの想いを託しました。たとえば、アニメーションの監督になる人や声優になる人っていうのは、子供の頃からアニメが好きで、憧れの監督や声優がいますよね? 僕みたいに小説家になる人間も、いっぱい本を読んできて、好きな作品や尊敬する作家がいる。だから聞き手が語り手へ変わるのは、意外にスムーズに考えられました。『平家物語』は覚一(かくいち)が作った正本で終わっているように見えるけど、それ以外にも語られた物語があって、あるいはまだ語られていない物語もあるはず。僕らはついつい目につくもの、耳に聞こえるものだけに注目しちゃうけど、そうじゃない面白いもの、美しいもの、大事なものが、世界中のいろいろな場所にまだ隠れていると思うんです。
――犬王のバディとなる盲目の琵琶法師、友魚についても聞きたいです。
古川 はい。友魚は完全な僕の創作物、犬王の造形と表裏一体で生まれたキャラクターです。人生って凸凹(でこぼこ)しているじゃないですか。そこの、凹んでいるところにうまくポコッと入ったり、出ているところをパカッと受け止めたりする相手なんです。犬王は生まれたときから肉体が奇怪な形をしている。だとしたらもう一方は、生まれたときは普通の身体で、天真爛漫で、親の愛情もある環境で育っていたのに、誰かのせいでそのすべてを奪われる、そういう人を作ればいいと思いました。最初は聞こえていたり、見えていたりしたのに、あとからそれを失った人には、その苦しみがわかる。犬王という人間の苦しみをわかってあげられるのは、友魚のような、五体満足で生まれたけど、何かを失ったバディじゃないかなって。そこから少しずつ造形していきました。
――原作の最後の一文が今も心に残っています。映画では犬王役のアヴちゃんたち、キャスト陣の熱演も忘れられませんが、その辺りはいかがでしたか?
古川 歌って、身体を通して声帯を震わせるじゃないですか。アヴちゃんも森山(未來)さんも、どう歌おうかって考えて、自分の肉体を改造しながら描かれたキャラクターに命を吹き込んでいく作業だったと思うんですよ。命を吹き込んで動かすということが「アニメイト」、まさにアニメーションの語源ですけれども、それをやっている。あのふたりは犬王と友魚・友一・友有っていうものを自分たちで生んでいったような気がしますね。それが素晴らしいなって思います。
- 古川日出男
- ふるかわひでお 小説家。1966年福島県生まれ。1998年、長篇小説『13』でデビュー。代表作に『LOVE』『女たち三百人の裏切りの書』『ベルカ、吠えないのか?』など。2016年刊行の池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」第9巻『平家物語』の現代語全訳を手がけた。TVアニメ『平家物語』に続き、『平家物語 犬王の巻』を映画化した『犬王』も公開された。