TOPICS 2022.07.19 │ 12:00

聖地巡礼のススメ2022③
舞台だけじゃない旅の「楽しみ方」とは?

聖地巡礼の魅力をFebri流に徹底解説するこの特集。第3回は旅をテーマに、舞台だけではない楽しみや、その街に適した移動方法など、旅全体を充実させるコツを紹介しよう!

文・浅野健司

最大のコツは「知る」こと

3回にわたって聖地巡礼の楽しみ方を紹介してきた本特集、いかがだっただろうか。気軽に訪れても十分面白いし、ハマり出したら探す、撮るといった奥深さもある。ルールやマナーを守って、気負うことなく自分のやり方で楽しんでみてほしい。

そのうえで最後に紹介したいコツは「知る」こと。

筆者は旅が好きなので、公私や聖地の有無を問わずさまざまな場所に足を延ばしているのだが、印象に残っているのは、不思議と仕事で訪れた聖地が多い。舞台を目の当たりにした感慨もあるし、行くと決めた場所を回りきる達成感もあるので、バイクで気の向くままに走り回っている普段の旅より充実感が強いのかもしれない。

しかし、最大のポイントは、その街を知ろうとしていることだろう。

仕事なので当然ではあるが、取材へ向かう前に舞台の場所はもちろん、街の成り立ち、観光スポット、人気のお店など、できる限りの下調べをしている。すると作品以外の部分にも興味が出てくるし、巡礼の途中で見かけた何気ないものにも「これは調べたときに見た、あのことに関係があるな」と気づけるから、聖地だけでなく街自体の面白さも味わうことができるのだ。それが、印象に残る理由だと感じている。

もちろん、現地で知りたい、偶然を楽しみたい、だから事前知識を入れたくないという人もいるかもしれない。そこは人それぞれだが、筆者の経験からいえば、大丈夫。知識は現地で知ったことをより深く実感させてくれるし、どれだけ調べても偶然は訪れる。むしろ望んでいた偶然と出会っていたのに、知らないから気づけなかった、ということのほうが多いくらいなので心配は無用だ。それにやっぱり、事前に知っていて興味が大きいほど、現地を訪れたときの感動も大きくなるものだ。

とはいえ、先にも述べた通り、気負う必要な何もない。聖地を巡るのにいちばん必要な“知ること”は「この場所に行ってみたい」と思える作品に出会うことであり、出会った時点で旅立つ準備はできている。あとは実際に訪れて、そこにある感動を知るだけだ。そして少しでも楽しいと思ったら、次は訪れる街のことも知ろうとしてみてほしい。そうすれば、旅がより奥深いものとなり、聖地巡礼の魅力を存分に感じてもらえるはずだ。

聖地の代表例として知られる大洗は、街全体が『ガールズ&パンツァー』のテーマパークのよう。その様子には、街と巡礼者との理想的な関係があるような気がする。

COLUMNS 「救い」としての巡礼の旅

足るを知る者は富む、という語がある。老子の言葉で「自分が満ち足りていることに気づけば幸せになれる」という意味になるだろうか。もちろん、かいつまんだ説明ではあるけれど。

少し話は飛ぶが、初めて聖地巡礼らしきことをしたのは小学3年生ぐらいだった。当時、高河ゆんの『源氏』というマンガが好きだった僕は、お年玉を電車賃にして神奈川県の鎌倉まで行ったのだ。ひとりきりの遠出はそれだけで心が躍ったし、見知らぬ街は新鮮で飽きることがなかった。作品自体は現実の鎌倉を舞台にしているわけではなかったけれど、それでも登場人物たちと同じ空気を吸っているような気がして、不思議な高揚を何日も感じていたのをおぼえている。

その経験が影響してなのか、僕は旅行が大好きな人間に育った。どれくらい好きかというとまさに雑食。行く場所が何かの聖地でもそうでなくても、初めての場所でも10回目の場所でも構わない。おまけにバイクという趣味もあるため、晴れ渡った空を眺めては「どこかへ行きたい」といつも考えている。

こう書くとかなり脳天気な人生を送っているように思われるかもしれないが(実際その通りではある)、さして突出した能力もない僕のようなフリーライターにとって、日々はけして順風満帆ではない。何だってできるという自信も若さとともに失い、実力不足に頭を掻きむしることはしょっちゅうだ。人間関係に悩まされることもある。先のことを考えて形容しがたい不安に襲われることもある。

だが、ある日僕は救われた。

それは個人的に長野県にある聖地を巡った帰りだった。山中の国道を照らす鮮やかな夕暮れ。初夏の風の穏やかな暖かさ。バイクに乗ることの楽しさ。旅を楽しんだ充実感や、幼い頃と変わらない聖地を巡る高揚。さまざまなものが奇跡的に折り重なるようにして、「これで十分なのだ」という気持ちがストンと心の中に降りてきたのだ。

不安を払うために自分に言い聞かせたわけでもなく、現実から逃避するわけでもなく。今、僕は満たされていて幸せなのだという気持ちが、ただ事実として胸の中にあった。それはとても穏やかでありながら、心強く温かい感情だった。

もちろん、そんな心境になったからといって何かが解決するわけではない。相変わらず不安を抱えた人生は今日も続いている。……しかし、救いはある。辛いことはこれからも山ほどあるけれど、ときどきあんな気持ちになれるのなら、なんとか生きていけるかもしれない。そんな確信が。

かつて人々が信仰の証として踏み出した聖地への巡礼。そこにあったのも同じような感情ではないかと思う。さまざまな苦難に直面したとしても、心の中に救いとなる「何か」がひとつでもあれば、おそらく人は歩き続けることができる。その「何か」を求めて今も昔も旅をするのではないだろうか――。

聖地へ向かうためにバイクへ跨るとき、僕はいつもそんなことを考えるのだ。endmark