Febri TALK 2022.01.24 │ 12:00

待田堂子 脚本家

①プロに必要な度胸と根性を培った
『週刊ストーリーランド』

『らき☆すた』『THE IDOLM@STER』『Wake Up, Girls!』『プラオレ!~PRIDE OF ORANGE~』など、数々の人気TVアニメでメインライターを務める脚本家・待田堂子の人生を左右したアニメ作品を聞く連載インタビュー。第1回は、ゴールデンタイムの大人気バラエティ番組『週刊ストーリーランド』。

取材・文/日詰明嘉

初めて参加した現場で受けた1000本ノック

――『週刊ストーリーランド(以下、ストーリーランド)』は視聴者から送られてきた体験やストーリー案を短編アニメ化し、その感想や見どころをタレントが語り合うバラエティ番組でしたが、この作品を選んだ理由は?
待田 これは私の脚本家デビューの作品なんです。シナリオ・センターという学校に通っていたときに橋田寿賀子シナリオ新人賞をいただいたのがきっかけで、日本テレビでお仕事をすることになりました。ただ、最初は下読みといって、視聴者から送られてくる原案の中から、作品として使えそうなものを仕分けする仕事でした。それと同時に自分でもプロットを出していいと言われていて、仕事を始めて8カ月目くらいの時期に「書いてみないか?」とお声がけいただきました。それが「母ちゃんの弁当箱」というお話で、そのすぐあとに「天国からのビデオレター」というお話も書きました。

――待望の脚本家デビューの切符を手にしたわけですね。
待田 そこまでが大変だったんですよ。大勢の脚本家の卵たちがプロットを書くのですが、もう全然通らないんです。プロット出しはバラエティパートのプロデューサーや構成作家の方々が一堂に会する会議で行われて、そこに私たちも出席するのですが、まずその雰囲気に圧倒されてしまって。「せっかくこの椅子に座れたのに、下手なことを言ってクビになったらどうしよう」ということばかりが頭にあって、ひと言も発せずにいた時期も長かったです。でも、新人の中からプロットが通る人がだんだん出てきて、悔しい思いをしながらもなんとか食らいついていきました。一方で心が折れて途中で脱落していく仲間もたくさん見送りました。その屍を乗り越えてタフになりましたし、今に至るまで少々のことではへこたれないようになりました。「あの『ストーリーランド』を乗り越えたんだから」と(笑)。

――アニメパートの脚本は、具体的にはどのように作っていったのでしょうか?
待田 たとえば、「母ちゃんの弁当箱」はベースとなった投稿の時点でしっかりと物語の骨子ができていたので、それを膨らませながら、担当プロデューサーと1000本ノック状態で何度も書き直して脚本に仕上げていきました。私を担当してくれたプロデューサーはドラマの経験もある方で、脚本作りにも慣れていらっしゃったのですが、私はプロの仕事として書くのは初めてでしたから、とにかく緊張していました。言われたことだけを咀嚼して「筋の通ったものを書かなきゃ」という意識に追われて、視聴者に向けて作るというところまで頭が回っていなかったです。『ストーリーランド』に関わっている間はずっとそうだったと思います。あの時代(番組の放送期間は1999~2001年)のテレビ番組のプロデューサーって怖かったんですよ。私たちには比較的優しく接してくださいましたが……。

『ストーリーランド』の

現場を乗り越えたことを思えば

少々のことでは

へこたれなくなりました

――新人にとっては過酷な現場だったんですね。
待田 でも、おかげで度胸と根性がつきました。このふたつは『ストーリーランド』で培われたものですね。何度も脚本を直しているうちに「この椅子から降ろされたらもう書かせてもらえない」というプレッシャーが「石にかじりついてでもやり通す」という意識に変わっていきました。当時の私が今の自分を見たら「もっと頑張れ!」と言いそうです。

――脚本を担当した回がオンエアされたときは、どのような気持ちでしたか?
待田 生まれて初めてテレビ番組に自分の名前がクレジットされる喜びは本当に大きかったです。「天国からのビデオレター」はノベライズされたり、当時VHSで発売されたセレクションにも入れていただきました。脚本はあくまで作品の設計図なので、私以外の多くのスタッフの方々が頑張った成果なのですが、そこに自分が関われたことがうれしかったですね。

――当時の経験で今の仕事に生かされていると思う部分はありますか?
待田 まず、アイデアを思いつくことは、脚本家を目指す以上、最低限できなきゃいけないことですよね。視聴者の方から送られてきた原案をどう面白くするか。思いつく限りのアイデアを出しているうちに、それがプロとして食べていくうえでできなければいけないことだと教えられました。あとはやはり……度胸と根性(笑)。

――やはりそこに行き着きますか(笑)。
待田 最初は私も根性が大事だなんて思っていなかったんです。まだ脚本家を志していただけの頃に、映画監督の新藤兼人(しんどうかねと)さんの講演会に行ったことがありました。そこで「どうしたら脚本家になれますか?」という質問に「最低限の生活をしつつ、とにかく2年間はシナリオ以外のことは何も考えずに書き続ければ、誰だってなれる」と新藤さんはおっしゃっていたんです。当時の私は「そんなことできるわけないじゃん……」と思いながら聞いていました。

――なるほど。
待田 でも、『ストーリーランド』は22時から打ち合わせをして、翌朝に直しをアップしなければならないような現場でした。前日にも直しを書いているから、もう打ち合わせの時点でヨレヨレなわけです。そこからまたさらに直しを次の日の朝までに……の繰り返しで。そこでようやく「新藤さんが言っていたのはこういうことだったのか」と思いました。昭和生まれの私ですら聞いたときは腑に落ちなかったので、若い人にはなかなか響かないと思うのですが「プロになるって、そういうことだぞ!」と今は思います。endmark

KATARIBE Profile

待田堂子

待田堂子

脚本家

まちだとうこ 愛知県出身。シナリオ・センター在学中の1999年、橋田寿賀子シナリオ新人賞を受賞し、『週刊ストーリーランド』をきっかけに脚本家となる。主な参加作品に『らき☆すた』『THE IDOLM@STER』『Wake Up, Girls!』『SHOW BY ROCK!!』『プラオレ!~PRIDE OF ORANGE~』など。

あわせて読みたい