Febri TALK 2023.04.07 │ 12:00

岡村天斎 アニメーション監督/演出家

③多くの人に助けられた初監督作
『最臭兵器』

岡村天斎のアニメ遍歴をたどるインタビュー連載の最終回は、自身の初監督作であるオムニバス映画『MEMORIES』の中の一編『最臭兵器』。苦労が絶えなかったという制作の舞台裏と、この作品を通して岡村が手に入れたものとは? 当時の状況を振り返りつつ、たっぷり語ってもらった。

取材・文/宮 昌太朗

「自分が手がけることはない」と思っていたタイプの作品

――3本目は、岡村さんの初監督作品でもあるオムニバス映画『MEMORIES』の中の一編「最臭兵器」です。1995年の公開なので『妖獣都市』から少し間が空いていますね。
岡村 そうですね。『YAWARA!』で何本か絵コンテを描いて、そこから演出方向に舵を切っていきました。もともとアニメーターよりも演出がやりたかったんです。

――当時のマッドハウスは、若手でも演出できるチャンスが多かったのでしょうか?
岡村 というか、僕が入社した頃は劇場作品やOVAがメインで、TVアニメをあまりやっていなかったんです。だから「TVだったら(演出を)やらせてやるよ」と言われていて、それをおぼえていたんですよね。「あのとき、やらせてくれるって言いましたよね?」と(笑)。それならしょうがない……みたいな感じで。

――初めてのコンテ・演出は『YAWARA!』ですか?
岡村 そうですね。そんな感じで演出を始めたばかりの頃に、突然、「大友克洋さんがオムニバスの劇場作品を作るから、そのうちの1本を監督しろ」と言われて(笑)。それが『最臭兵器』でした。そのときすでに大友さんが書いたシナリオはあったんですが、たぶん大友さんは川尻さんに監督を頼もうとしていたはずなんです。でも、川尻さんが「自分のスタイルではないな」と思って、それで僕に回ってきたんじゃないかな。ギャグっぽいものができそうな人が他にいなかったんでしょうね。

――初めて監督してみていかがでしたか?
岡村 大変でした(笑)。僕は、大友克洋さんは手塚治虫以来のマンガ界で革命を起こした人だと思っているんです。大友さんは最初の頃、青年誌で活躍されていて、学生の頃の僕のまわりも大友さんを崇拝している人が多かったです。リアリティを突き詰めていくような描き方は、その後、アニメ界にもどんどん浸透していきましたし。

――岡村さんの世代は、大友さんの登場に直接、インパクトを受けた世代かなと思います。
岡村 ただ、個人的には「自分が手がけるタイプの作品ではないな」と思っていたんです。『AKIRA』のときも、そちら側には近づかないようにしていたし(笑)、僕はどちらかというと、少年マンガや子供向けの作品に行きたいと思っていたんですね。そうしたら、向こう側からやって来たという。

――なるほど(笑)。
岡村 僕はそれまでTVアニメしか経験してこなかったので、制作が始まってコンテを描いても「なんだこれは! TVアニメじゃないんだからさ」と叩き返されるわけです。一度、「岡村を下ろそう」という話にもなったみたいなんですけど、そこで川尻さんが「自分が面倒を見るので」ととりなしてくれて。どういうものが劇場作品なのか、その頃はまだわかっていなかったんですよね。

完成したものを見ると「意外と自分の作品らしくなっている」

――そんな中で手応えを感じた瞬間はありましたか?
岡村 いや……。ずっといろいろな人に助けられて、なんとか出来上がったという感じでしたね。ただ、出来上がったものを見ると、「意外と自分の作品らしくなっているな」とも思いました。もちろん、川尻さんが僕のいいところを残してくれたからだと思いますけど、そのときに何か自分の中で手に入れた感じはあります。あと、この作品でキャラクターデザインと作画監督をやってくれた川崎博嗣さんには本当にお世話になりました。他の人たちがみんな僕のことを遠巻きにしている中で「大友さんの仕事、やることになったんだって?」とすごく心配そうに話しかけてくれて(笑)。そのときはもう「この人と一緒にやるしかない」みたいな感じでしたね。川崎さんがリーダーとしてスタッフを仕切ってくれましたし、のちにこのときの縁がきっかけで劇場版の『NARUTO』(※『劇場版 NARUTO -ナルト- 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!』)に誘われることになるんです。

――先ほど、川尻さんが「自分が面倒を見る」と言ってくれたという話がありましたが、クレジットとしては「監修」という形になっていますね。
岡村 僕が描いたコンテを見て、直しを入れてくれたりしました。しかも、それだけいろいろ手伝ってもらったのに、最後のシーンの原画を無理やり押しつけてしまって(笑)。ガスが吹き荒れているトンネルの中で宇宙服の人が歩いてくるシーンだったんですけど、そのシーンの原画を構成できる人がいないという話になったんですよ。ここはもう川尻さんしかいないと思って、お願いして。「しょうがねえな」みたいな感じで受けていただけて助かりました(笑)。

――リアルな世界観でコミカルなドタバタ劇をやるという、なかなか他にはないタイプの作品ですよね。
岡村 シナリオを読んだとき、大友さんがマンガで描いたらきっと面白いんだろうと思ったんです。でも、自分がコンテを描くとなると、どうやれば面白くなるのか、すごく悩みました。川崎さんが「怪獣映画のノリでいいんじゃないの」と言ってくれて、すごく助かりましたね。

――なるほど。当時を振り返ってみて、今でも役立っていることは?
岡村 忍耐力ですかね。頑張っていれば、いつかは終わるという(笑)。ちょっとずつでも進めていれば、いつかは終わる。手が止まったら最後なので、少しずつでも進めないと。それは今でも思います。

――人生に通じるところがありますね(笑)。のちのお仕事への影響というと?
岡村 このあとProduction I.Gに移籍したんですが、そこでは「『最臭兵器』をやった人らしいぞ」と一目置かれる感じがありました(笑)。あと、会社を移ったタイミングで『BLUE SEED』のオープニングを担当することになったんですが、自衛隊や兵器がたくさん出てくる作品だったので、そこでは「最臭兵器」の経験が役に立ちましたね。endmark

KATARIBE Profile

岡村天斎

岡村天斎

アニメーション監督/演出家

おかむらてんさい 1961年生まれ、福島県出身。マッドハウスに入社後、アニメーターとして活躍したのち、オムニバス映画『MEMORIES』の一編「最臭兵器」で初監督。主な監督作に『DARKER THAN BLACK -黒の契約者-』『青の祓魔師』『世界征服~謀略のズヴィズダー~』など。

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