ニッチな作品だからこそ、ポピュラーな楽曲でバランスを取る
――物語全体を通して、とくに印象深いシーンはどこですか?
木下 阿久津と那奈、健介の3人が『Stand By Me』(ベン・E・キング)を段ボールと電子レンジで奏でるシーンですね。ここはすごく絵コンテが難航したんですよ。野球中継の音と彼らの動き、段ボールをはがす回数とか、いろいろ考え出すとすごく難しくて。でも、出来上がったフィルムを見るとうまくいったなと思って、そこは印象に残っています。
――あのシーンは、シリアスな本作の中で、いかにあの時間が幸せだったのかを観客に強烈に印象付けますよね。ちなみにこのアイデアはどなたから?
木下 これは完全に脚本の此元さんですね。この映画自体はニッチ向けではあるんですけど、こうやってポピュラーな楽曲が一曲入ることで、大衆性とのバランスがちょっと取れるというか、少しエンターテインメント性が上がるんですよね。そこら辺のバランス感覚が見事だなと思いました。

――その他、完成したフィルムを見てうまくいったと感じるシーンはありますか?
木下 最後の海岸線を走るシーンですかね。髪のなびきなど、細部までこだわることができたので、ここはよくできたなと思っています。
小さな成功でも、僕はいい人生だったんじゃないかと思う
――前作『オッドタクシー』は群像劇でしたが、今回は阿久津というひとりの男にきっちりフォーカスし、その一生を描き切りました。現段階での手応えはどうですか?
木下 『オッドタクシー』はキャラクターが多いがゆえに、そこまで深い心理描写は描けませんでした。なので今回は、登場人物を絞ったぶん、心理描写を深くやりたいと思っていて。風呂敷をバンバン広げるよりは、ちっちゃい箱庭みたいな世界観で、美しいものを丁寧に作っていこうという心意気でした。ひとりの人間の生涯って、派手な人も地味な人もいると思いますが、ちゃんと描けばこうしてドラマになって、誰かを感動させられるんだなとあらためて感じました。
――阿久津という人間の解像度を、非常に高く描けたという感覚でしょうか。
木下 そうですね。そして物語のオチの、さらにその最後にもう一個、いちばん大事なオチがあるというのが、この映画の良いところかなと思っています。地に足のついたやり方で、大逆転劇をするところですね。

――すでに劇場でご覧になった方も多いと思いますが、2回目以降に鑑賞する際の楽しみ方のポイントがあれば教えてください。
木下 そうですね。モブキャラクターや背景など、いろいろなところに時代の流れや変化を描いています。たとえば、阿久津が電話ボックスで電話している背後でヤンキーが楽しそうに歩いていたり。日常的に平和に暮らしている人たちと、闇の世界に堕(お)ちてしまった人との隔たりを意識的に描いているので、そこら辺も隅々まで楽しんでもらえたらうれしいです。

――たしかに、年老いた堤の雰囲気からは「ろくな人生を送ってこなかったんだろうな」というのがひと目でわかりますし、言葉ではなく絵で30数年の時間を描くのが、この映画の醍醐味でもありますね。
木下 そうですね。いろいろなカットにそういうギャップを散りばめていますね。
物質的なものではなく、思いやりを大事にしてほしい
――では最後に、あらためて木下監督がこの映画に込めた思いやメッセージをお願いします。
木下 今、世の中は物質的なものや派手なエンターテインメントが多いと思うんです。それらを否定するわけではありませんけど、身のまわりの人だったり風景だったりを、まずはいちばん最初に大切にしていく、というのがこの作品で伝えたかったことです。命はつないでいくものですし、そのうえで愛を伝えるのが大事なことなのかなと。愛されていると実感することで人は心の平穏を得ると思うので、物質的なものではなく、思いやりを大事にしてほしいというメッセージを込めたつもりです。

――ちなみに今回、劇場映画というフォーマットで作ってみてどうでしたか?
木下 映画は映画で楽しかったです。TVアニメもまた違う意味で楽しいんですけど、映画はスタッフ一丸となって芸術性を高めていける気がして、それがすごくいいなと思いました。どっちも面白い感じなので、これからもチャンスがあれば、テレビも映画も両方やってみたいと思います。
- 木下麦
- きのした・ばく アニメーション監督、演出家、アニメーター。2021年にTVアニメ「オッドタクシー」で監督・キャラクターデザインとしてデビュー。社会の片隅で生きる人々をリアルな筆致で描いた同作は国内外で高い評価を獲得し、第25回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞を受賞。細やかな日常芝居の演出に定評があり、最新監督作『ホウセンカ』では、脚本・此元和津也と再びタッグを組む。