TOPICS 2021.05.11 │ 12:00

社会人オタク教養学 クトゥルフ神話①

第1回 知られざる古代の邪神信仰 「クトゥルフの呼び声」

20世紀に誕生した人造の恐怖神話大系である「クトゥルフ神話」は、その最初の短編から100年以上が過ぎた。宇宙から飛来した異形の神々、忌まわしき邪神信仰、歴史の闇に潜む禁断のカルト結社……現代ホラーの真髄はここから始まった。そして、それはホラーのみならず、サブカルチャー全体に影響を与えているのだ。

文/朱鷺田祐介 バナービジュアル/まりやす

クトゥルフ神話の始まり

かような忌まわしき文言が世界に流布している。人類がまだ地球に生まれてもいなかった超古代に、宇宙の彼方から飛来した「異形の存在」は、星辰の移り変わりにより、死んだかのように海底で眠っていたが、永劫のときを越えて目覚めようとしている。「それ」が目覚めたとき、世界は滅びるかもしれない。「それ」は禁じられた秘教の教えのなかで、こう呼ばれていた。──「クトゥルフ」と。

「クトゥルフ」が最初に登場したのは、1928年(昭和3年)2月、アメリカのパルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』に掲載されたハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890-1937)の短編『クトゥルフの呼び声』だった。それ以降、ラヴクラフトが書いたいくつものの作品を軸として、多数の作家による多くの物語が連鎖し、やがて、「クトゥルフ神話」として語られる作品世界が生まれていった。

ラヴクラフトは、宇宙から来た邪神や人類発祥以前の地球を支配していた超古代種族、おぞましい魔道書などを描き出し、多くの読者と作家を魅了した。しかし、ラヴクラフトが商業作家として活躍した期間は短かった。1922年に『ダゴン』など5編の短編を創刊したばかりのパルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』に送り、翌年デビューしたが、1935年に執筆した『闇をさまよう者』を最後に、1937年に病死した。

ラヴクラフトの作品は、幼少時から培った神話と科学への深い造詣に裏打ちされたもので、モダンホラーであるとともにSF的な要素も含んでいて、斬新なアイデアに満ちていた。そのヴィジョンは友人の作家やアマチュア作家仲間との交流から生まれたものが多く、ラヴクラフトの死後も、そのヴィジョンを受け継いだ作品がいくつも書かれていき、「クトゥルフ神話」と総称されるようになった。その中心となったのは、ラヴクラフトを尊敬していた作家オーガスト・ダーレスが自ら作った出版社アーカム・ハウスだった。クトゥルフ神話の波は太平洋を越えて、日本のSFやホラーの世界にも届き、今やサブカルチャーの定番アイテムのひとつになった。この連載では、クトゥルフ神話という言葉は聞いたことあるものの、原典はまだ読んだことがない人のために、代表的な3つの作品について解説していこう。

三幕構成された謎と恐怖の物語

クトゥルフ神話の中核に位置する『クトゥルフの呼び声』は、デビュー作『ダゴン』(1917年執筆)を徹底的に書き直したもので、現代の人間が知らない超古代の地球を支配していた海底の邪神クトゥルフの恐怖を見事に描き出している。この作品が執筆されたのは1926年、日本の元号で言えば昭和元年に当たる。いまだ科学による新しい物の見方が完全に浸透したとは言えない時代、やっと複葉機が空を飛んだ時代に、ラヴクラフトは宇宙の彼方から飛来した「まったく別の恐怖」を描こうとしたのである。

物語は3つのパートからなる謎解きの物語で、サーストンの遺品の手記という体裁になっている。この「ホラー小説が誰かの手記の形を取る」というのは、ラヴクラフトの好んだ手法で、以降、クトゥルフ神話の代名詞のひとつになっていく。以下、それぞれのパートのあらすじを紹介しよう。

第一部「粘土板の恐怖」で、主人公のサーストンである「わたし」は、亡くなった大叔父、エインジェル教授の遺稿から、教授が最後に調べていた奇妙な事件を知る。はじまりは1925年、若き芸術家ウィルコックスが悪夢にうなされて作り上げた、神の像が描かれた粘土製のレリーフだった。ある過去の記憶を刺激され、教授はウィルコックスの奇妙な夢の話を信じるが、ウィルコックスは熱病を発症し、夢の記憶を失ってしまう。そこで、教授は手を尽くして、同じように悪夢を見た者がいないか調査し、そこには偶然以上の何かが関与していることを突き止める。

第二部「ルグラース警視正の話」では、エインジェル教授がウィルコックスの悪夢を信じた理由が語られる。1908年のアメリカ考古学協会年次総会に、ニューオリンズから来たルグラース警視正が、後にウィルコックスが夢に見る姿とそっくりの神の像を持ち込んでいたのだ。それは数カ月前、邪教の集会から押収したものだったが、その神の像は既存のいかなる神格とも類似しておらず、素材さえもまったく謎であった。台座に刻まれた文字も誰ひとり類似したものを挙げることができなかった。ルグラースによれば、信者たちの信じる神は、人類誕生のはるか以前に宇宙から飛来した旧支配者で、星たちが正しい位置にあった時代には宇宙を自由に旅することができたが、星たちの位置が変化すると生きていくことができなくなり、今は海底や地底に姿を消している。だが、ひとたび星辰の位置が整えば、海底のルルイエの都市にある暗黒の館から大祭司クトゥルフが現れ、再び地球をその支配下に置くという。果てしない歳月が過ぎ、最初の人類が誕生すると、旧支配者は夢を形作ることで人類のとりわけ鋭敏な者に語りかけ、そのしもべとしたのだ。

画像出典 photoAC

第三部「海からの狂気」で「わたし」の探索が始まる。クトゥルフの謎に取りつかれた「わたし」は、偶然、目にした新聞からウィルコックスが悪夢を見たその頃、同様の神の像をニュージーランド沖で発見した船員・ヨハンセンの存在を知る。「わたし」はノルウェーまで足を延ばしたが、その船員はすでに死んだあとだった。ヨハンセンの遺稿によれば、ウィルコックスが悪夢を見た日に、彼と仲間たちは海上に浮上した超古代都市ルルイエを発見し、恐るべき存在を目撃したのだ。仲間のうちふたりは、その存在を目にしただけで恐怖によるショックで息絶え、ヨハンセン以外の残りの船員も抵抗むなしく死んでいった。残ったヨハンセンは決死の覚悟でクトゥルフから逃げ延びたが、その後、彼も衰弱し、死んでしまう。

ここで前述した短編の構造を思い出してほしい。この作品は「わたし」(サーストン)が残した遺品の手記なのである。クトゥルフについて知りすぎたサーストン自身も亡くなっていることが示唆されている、この構造自体が恐怖の仕掛けなのだ。

クトゥルフ神話の魅力と拡大

『クトゥルフの呼び声』を読んだ多くの人々は、そこで紡がれたイメージの豊かさに愕然とする。悪夢に出現したまがまがしい海底の都ルルイエは緑の粘液にまみれ、人ならぬ作り手が生み出した不可解で不吉な角度と雰囲気に包まれている。そして、そこに眠る大いなるクトゥルフが悪夢のなかから人々を招く姿は、おぞましくも美しい。

ラヴクラフトはオリジナリティーを追求した。ホラーの定番というべき吸血鬼や人狼、妖精や悪魔ではなく、人々がまだ知らない何か異形の存在からの恐怖を表現するため、彼は「名状しがたきもの」(The Unnamable)に代表される「文章で表現しきれないほどおぞましい存在」「人が名前を知らない超次元的な怪物」を登場させ、奇怪な描写で読者を追い詰めた。無数の動物が合体したような姿、触手、羽や鱗、異形の色彩、タール状の粘液など、ラヴクラフトの創造した怪物たちはじつに印象的なものだった。

こうした魅力を持つクトゥルフ神話が、今世紀に拡大した流れにはTRPG(テーブルトークRPG)が大きな役割を果たした。1980年代後半にホビージャパン社から『クトゥルフの呼び声』TRPGが翻訳刊行されており、現在のクトゥルフ好きなクリエーターたちがその洗礼を受けている。そして21世紀に入ると、『クトゥルフ神話TRPG』(KADOKAWA)として再起動し、2010年前後にネット動画をきっかけに爆発的なブームとなった。現在では、クトゥルフ神話の世界観=TRPGの世界観と言ってもよいほどの状況になりつつある。ホラージャンルのTRPGとして、邪神を見ると発狂してしまい、その狂気を再現するルールとして「正気度ロール」があり、正気度をSAN(サン)と略称することから「SAN値ピンチ」などの俗語が普及した。

画像出典 photoAC

今では、クトゥルフやニャルラトホテプといったクトゥルフ神話の邪神(あるいは、それらを総称する「旧支配者」)や、魔道書ネクロノミコンに代表されるクトゥルフ神話のアイテムが、ホラーの世界のみならず、アニメやマンガ、ライトノベルにも登場するようになった。たとえば、『Fate/Grand Order(以下、FGO)』(2015)をはじめとするスマホゲームの多くに、クトゥルフ神話が由来とおぼしきシナリオ、キャラクターが数多く登場する。『FGO』の場合、フォーリナーのキャラクターにクトゥルフ神話のモチーフが見て取れ、具体的には葛飾北斎がクトゥルフに、アビゲイルがヨグ=ソトースに関連付けられていると思われる。また、ニャルラトホテプなどの邪神たちをモチーフにしたライトノベル『這いよれ!ニャル子さん』(2012)も話題となり、アニメ化された。こうした結果、アニメやゲーム(TRPGだけでなく)を通してクトゥルフ神話に触れる層がさらに増え、『ポプテピピック』(2018)のようなギャグアニメにも邪神クトゥルフが登場するなど、ホラーではない作品への浸透も見られるようになった。endmark