Febri TALK 2021.04.09 │ 12:00

村田和也 監督

③持てる力をすべて注ぎ込んだ
『剣風伝奇ベルセルク』

スタジオジブリから独立後、本格的に演出家としてキャリアを歩み始めた村田監督。インタビュー連載の第3回は、そんな彼がOLM時代に制作に参加した高橋ナオヒト監督のアニメ『剣風伝奇ベルセルク』について。

取材・文/宮 昌太朗 撮影/須﨑祐次

※新型コロナウイルス感染予防対策をとって撮影しています。

深夜アニメ黎明期の、熱量とチャレンジ精神

――3本目に挙げていただいた『剣風伝奇ベルセルク(以下、ベルセルク)』ですが、これはOLM制作・高橋ナオヒト監督のTVシリーズ(1997-98年)。村田監督は「監督補」としてクレジットされています。
村田 僕はOLM設立(1990年)当時のメンバーのひとりなんですよ。話をさかのぼると『おもひでぽろぽろ』のあとに『海がきこえる』の演出助手をやっていた頃、そろそろ独り立ちして本格的に演出をやりたい、と思い始めていたんです。ところがジブリの中では新人演出がやれる作品がない。会社的には、次の高畑さんの『平成狸合戦ぽんぽこ』がすでに動いていましたから、そのまま残ればその演出助手をやるしかない。なので外に出るしかないんですが、当時はTVシリーズの本数が激減して、アニメ業界全体としてはOVAにシフトしていた時期で、新人演出が出ていく隙間がないと言われている時期でした。しかし、ちょうど『海がきこえる』がほぼ終わりに差し掛かるタイミングで『おもひでぽろぽろ』のときに先輩だった須藤典彦さんから「新しいTVシリーズでチーフディレクターをやることになったんだけど、補佐がほしい」と声をかけてもらったんです。

――それがOLMの前身となるパステルが制作を手がけた『剣勇伝説YAIBA(以下、YAIBA)』(1993-94年)ですね。
村田 そうですね。パステルは全部で7人くらいの会社だったんですけど、もともと小学館系のマンガ家さんのエージェント会社だったオービー企画傘下のアニメスタジオで。そのパステルのプロデューサーだった神田修吉さんとオービー企画のプロデューサーだった奥野敏聡さんが、独立して作ったスタジオがOLMなんです。

――ということは、その流れで村田監督もOLMに参加することになった?
村田 そうです。会社としては、設立してわりとすぐにTVシリーズの『愛天使伝説ウェディングピーチ』や『モジャ公』などを請けていましたが、その間、僕のほうはずっと別班で『ガンスミスキャッツ』などのOVAに参加していました。その後、会社がだんだんと軌道に乗ってきたかなというタイミングで『ポケットモンスター』が始まるんですけど、そのかたわら、高橋ナオヒトさんのチームでやることになったのが『ベルセルク』なんです。もともと高橋さんはスタジオジャイアンツに所属していて、『YAIBA』のグロス回の演出として参加されていて。高橋さんが演出、千羽由利子さんが作画監督を担当した回(第10話)がすごくよくて、OLMを立ち上げたときに「ウチに来ないか」ってプロデューサーが声をかけたんですね。

――なるほど、そういう流れだったんですね。
村田 で、いよいよ高橋さんの監督でTVシリーズをやるぞ、と。しかも深夜枠で『ベルセルク』をやる。当時は深夜アニメの黎明期で、前例がほとんどない。原作はバイオレンス描写が過激な作品でしたけど、しかし深夜枠ならできる、と。アニメで人が斬られてドバッと血が出るとか、身体がバラバラになるとかって、ゴールデンタイムだったら絶対に許されなかったんですよ。そこにチャレンジしようということになったんです。会社もこれから伸びようとしている時期で、プロデューサー的にも作中に出てくる「鷹の団」の躍進劇やガッツとグリフィスの関係性に自分たちを投影しているフシもあって。しかし、『ベルセルク』は話の内容と同じくらい作画の内容も重い原作で……。

――アクションも多いし、衣装のディテールもすごく細かいですよね。
村田 なので、監督ひとりで演出面の統一を切り盛りするのはたぶん無理なので、サポートで入ってほしい、と言われたんですね。作画監督もひとりじゃ大変だからということから、『YAIBA』の総作画監督の松原徳弘さんと新進の千羽由利子さんのふたり体制を組んで。あと、キャラクターデザインは、当時若くて勢いがあるアニメーターということで、馬越嘉彦さんにお願いして、という。

――結果的に、すごく力の入ったシリーズになっていますね。
村田 当時、TVシリーズは社内班以外に、社外のスタジオにグロスでお願いすることが多くて、数社をローテーションで回すので、全体を統一するための総作監の作業がすごく大変だったんです。それは演出面も一緒で、各話演出さんがチェックしたあとの素材をさらに社内のメインスタッフで統一して、とにかく直せるだけ直すっていうやり方で。しかも、当たり前ですがTVシリーズなので、毎週締め切りがやってくる。そこに間に合わせるために、効率よく分担する必要があります。絵コンテチェックとポイントの話数のレイアウトチェック、音響・編集関係は高橋さんが担当して、それ以外のすべての絵のチェック、レイアウトや原画のチェックや演出修正は僕のほうで引き受けるというような体制を、作品を作っていくなかで組み上げました。各話演出だけやっていたときにはないしんどさがありましたね。

――ある意味、自分の出せる力をすべて出し切った、最初の作品だった。
村田 そうですね。いい意味でボロボロになりながらやっていました。自分が、作画監督に最良の素材を回すための最後の防波堤になっているので。どこまで作品のクオリティを担保するか。それを問われ続けているような感じがありました。絵やアクションのタイミングの管理もそうですし、それと並行して美術設定を描いたり。

――美術設定ですか!?
村田 「このエピソードにしか出てこない」っていう美術設定がたくさんあるんですけど、それを全部美術さんに発注している時間がない。資料はあるので「この場面の城はこういう設定です」と自分で図面やパース画を描いたり。

――これまでの経験が生かされた現場でもあったわけですね(笑)。
村田 そうですね。とにかく作品を支えるためにやらなければいけないことを全部やりました。あのときの経験は今の仕事に生きていますね。自分で「この表現はどうすればうまくいくんだろうか」と、先回りしてシミュレーションしてみたうえでスタッフに対して指示を出す。いかに自分の指示を誤解されることなく伝えるか、という技術。そこは間違いなく生きています。そのあと、高橋さんのチームは『To Heart』とか『鋼鉄天使くるみ』『フィギュア17 つばさ&ヒカル』などを手がけることになるんですが、そのチームワークのベースを培ったのが『ベルセルク』でした。OLM的には『ポケモン』など、メインの子供向け作品とは違う系譜のラインが『ベルセルク』から始まって、しばらく同時並行で作っていた。そういう意味で、OLMという会社の歴史のなかでも特殊な一時期だったのではないかなと、振り返ってみて思います。endmark

KATARIBE Profile

村田和也

村田和也

監督

むらたかずや 1964年生まれ。大阪府出身。一般企業に就職したのち、スタジオジブリに研修生として入社。その後、OLMの設立に参加し、フリーに。主な監督作品に『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』『翠星のガルガンティア』『A.I.C.O. -Incarnation-』『正解するカド』(総監督)など。

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